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ベトナム×自転車×挑戦 

February 11th, 2020

VINABOO 04, 2019                                                                                       根本優馬

  ビナブー読者の皆さん、初めまして!神奈川県在住 大学4年の根本優馬と申します。今回僕は、自転車での単独ベトナム南北縦断を思い立ち、2019年1月から2月にかけ無事に完走。1745㎞23日間一人きりの自転車旅で僕が経験した予想外のハプニング、危険、出会い等、旅の様子を是非ご紹介したいと、今回、寄稿させて頂きました。僕の旅行記が、読者の皆さんにクスッと笑ってもらえるものであればいいなーと思います!  

~旅程 2019年1月30日~2月21日~

 

縦断不正疑惑??

 初っ端から大変恐縮ですが、私、根本優馬。縦断途中12日目に、泥酔して気づいたらタクシーで自転車ごと50㎞ほど運ばれていたことを、、、白状いたします。すんませんっしたぁぁぁぁ!!(笑)読者の皆様のあたたかーい心で見逃してください(笑)。では早速、本題に入ります!  

なぜ自転車旅に出たのか

  今回の自転車旅には、目的が2つありました。1つ目は、今後ベトナムに進出する可能性のある父の会社、(株)サーフ・エンジニアリングの「アルバイト」。将来に備えての視察と、行く先々での会社や旋盤加工技術の紹介。そしてあわよくば、進出時に働いてくれそうな人材を獲得しようというものです。ベトナムの南部から北部まで、とにかく名刺をばら撒いてきました(笑)  そして2つ目は、「自分自身の限界への挑戦」でした。おそらく人生最後の長期休暇となる大学の春休み、「自分は何をしたいのか?」と考えた結果、お金をかけて贅沢することよりも(そんなお金はそもそもないけれど笑)、「相当の体力・時間を使って、自分自身の限界に挑戦することだ!」と、思いました。そして、僕にとってそれは、自転車でのベトナム縦断だったのです。  「ベトナム×自転車×挑戦」という組み合わせにしたのは、単純に好きなものを掛け合わせた結果です。僕がベトナム好きになった原点は、2016年夏から1年間のベトナム語学留学でした。「日本企業が進出しているが、まだ成熟しきっていない市場(国)の言葉がつかえれば、自分がそこで戦える可能性は無限大だ!」と考え、ベトナム語を勉強しようと決意し、短い期間でしたが、多くの出会いを通じて、ベトナムが大好きになりました。そんな訳で、留学終了後から自転車でのベトナム縦断が夢になり、今回なんとか実現させることができたのです!   バナナはおやつに入りますか?  小学校の遠足で、児童が先生に聞く鉄板ネタですね。←古い? 出発前に僕が一番心配していたことは、「自転車は無料預入荷物に入りますか?」という点でした。ベトナム航空とANAに電話して、何回も聞きいてみたところ、結論として、ベトナム航空とANAのコードシェア便では、ANAのHPから予約した場合、往路復路共にANAの荷物規定が適用されるようです(2019年2月時点)。そんな訳で、無事に無料で自転車とカバンを預けることが出来ました~よかったです。  サイクリスト向けの話になりますが、今回の旅で使ったかばんは、自転車のリアキャリア(後輪の上の荷台)にぶら下げるパニアバッグ2つとハンドルバッグでした。長距離の移動になるので、なるべく軽くするために荷物を最小限にして、合計11kgに抑えましたが、やはり重かったです。峠の上りで泣きたくなりました(笑)もし峠アタックされる方がいるなら、荷物は本気で少なくした方がいいかと、、、  

人生、山あり谷あり峠あり

今回の旅は、国道1Aをホーチミンからハノイに北上していくルートでした。実際に峠に直面するまで、国道1Aはアップダウンの少ない道だと僕は思っていました。そんな僕の前にそり立ついくつもの峠、、、絶望しました(笑)。特に記憶に残っているのは、南中部フーイエン省のカー峠と中部ダナン市・フエ省の間にあるハイヴァン峠です。カー峠は、そこにさしかかるまでに足が鍛えられていたので思ったよりも余裕に上りきれました。といっても、吐きそうになりながらの峠アタックでしたが、、、、 本当にあの世に行きかけたのは、ハイヴァン峠でした。最初はキツイと噂の峠道を回避しようと、別の坂を上りきって国道沿いのトンネルに向かったのですが、そのトンネルが見えてきたところで、自転車・バイク・歩行者の通行が禁止されていることを知りました。噂では、そのトンネルの近くで自転車を積んでトンネルを抜けてくれるトラックがあると聞いていたのですが、その時にはまったく見当たりませんでした。そんな訳で、一旦坂を下り、あらためて峠道アタック開始です。途中でバッグを投げ捨てたい衝動に駆られながらも、なんとか上りきり、頂上からの絶景を眺めることができて大満足。自分をあんなに追い込めたのはすごく久しぶりな気がして、最高の経験でした!ちなみに、頂上にはベトナム戦争の遺構が残っており、多くのツーリストで賑わっていました。下りは最高時速55km/hで小石やらガラスやらを避けながら、アドレナリン全開な感じの全速運転で、これまた最高でした!!!    

しっかりフラグ回収

 出発前、僕は「意外と楽に完走できるよ!」などと、苦戦フラグを乱立させていました。えぇ。もちろん、しっかりとフラグ回収させて頂きましたよ(笑)。どれだけ準備しても、やはりハプニングは起こるもので、今回起きたハプニングは3つあります。    1つ目は、冒頭に書いたタクシーで運ばれていた件です(笑)。 Day11の夜に、僕の宿泊していたホームステイ先の女性オーナーが、「祖父の12回忌のパーティーが次の日(=Day12)にあるから、参加しなよ」と誘ってくれました。午前中で終わるとのことだったので、パーティーが終わってからダナンに向かっても大丈夫だろうと思い参加したわけですが、飲みすぎて寝てしまい、起きたらタクシーで自転車ごと運ばれていました(笑)。運んでくれたのは、パーティーで初めて知り合ったスペインやインドネシアから来た方々でした。ご迷惑おかけしました(笑)。    2つ目は、パンクです。僕は、替えのチューブは大量に持ってきていましたが、外側のタイヤ部分はスペアを持ってきていませんでした。縦断開始4日目で、その外側のタイヤ部分が破けてパンクしてしまい、一時は、ベトナム縦断ギブアップかもしれないと思いましたが、2つのラッキーが重なり無事に修理できました。まず第1に、パンクした夜にたまたま泊まったホテルのオーナーがロードバイク乗りで、行きつけの自転車屋さんに連れて行ってくれたことです。おかげでタイヤ交換できました。が!!それはすでにヒビが入っている劣化したタイヤでした(笑)。これダメでしょ!?と言っても、「大丈夫!」としか返ってこない。とりあえず乗れるので、次の大都市までパンクしなければいいやーくらいの気持ちで、仕方なく購入しました。実際、その3日後にパンクしました(笑)。しかし、パンクする前に新しいタイヤを購入できていたので、問題なく縦断を続けられました。これが第2のラッキーです。ひび割れタイヤを買った次の日に、次の目的地のニャチャンにあるスポーツバイク店3軒に電話したところ、一軒はレンタル専門、もう一軒は応答なし、最後は応答したものの、テト休みだから閉店しているとのこと。これは縦断続けられないかもしれないと諦めかけましたが、頭ひねって考えた結果、3件目の店に突撃訪問しようと決めました。「電話に応答した=たとえ開いてなくても店に人はいる」と確信したので、無理やりにでも開けてもらおうと考えました←サイテー(笑)。 そんなこんなでお店に突撃したところ、テト前大掃除をしていまして、奇跡的に質のいいタイヤを買えました!    3つ目は、ハンガーノック(極度の低血糖状態)です。自転車やマラソンのように、長時間の激しいスポーツで陥りやすいトラブルです。僕は一度カロリー不足と糖分不足でハンガーノックに陥り、全身の脱力・頭痛・手の震えを経験しました。死ぬかも、と感じたのは小学生の時溺れて以来です。体調管理はしっかりしないとですね。  

ストーカーと物乞いとの出会い

フエに向かう道中、10kmほど僕についてくるバイクがいました。最初は全く気にしていなかったのですが、あまりにもしつこいので、一旦停車してバイクを先に行かせました。しかし、バイクも停車してしまいました。話しかけてくるわけでもないので、また走り出したら、バイクも発進しました。その後、停車と発車を5回くらい繰り返しましたがしつこく付いてくるので、道沿いにあるモーテルに自転車ごとつっこんで、ここのモーテルに泊まると相手に勘違いさせて、バイクが走り去ってから僕もまた予約していた別のホステルに向かいました。何事もなく終わりましたが、もし僕がそのままホステルに向かって宿泊場所がばれていたらと思うと、、、、ゾッとしますね。  北中部のヴィン市にいる時、バイクを手押ししている物乞いに出会いました。物乞いなのにバイクもってるの?って思うかもしれませんが、ベトナムではちょくちょく見かける光景ですね。彼は「ガス欠になっちゃって、ガソリン代も持ってないからお金くれ」とのこと。あきらかに怪しいので断ったら、またバイクを手押ししていきました。悪いことしたかな~と罪悪感を感じていましたが、しかし!彼は20mくらい進むと、バイクのエンジンをかけて走り去っていきました(笑)。おーい(笑)!  

旅の醍醐味

 今回は一人旅だったので、途中寂しいなーと感じることもありましたが、トゥイホア市とヴィン市で、友人知人と予定を示し合わせて落ち合ったりして、寂しさも解消できました! 自転車漕ぐのは一人でも楽しいですが、一緒にご飯を食べたり飲んだりできる仲間がいた方が絶対に面白いです。また、大きい街に滞在する日はだいたいどこでもフレンドリーな人と会えるので、その晩限りの飲み友達はたくさんできました。世界中からベトナムに集まった人が、色々な経験を共有しながら飲む。これも旅の醍醐味かな~と!  

終わっちゃった

「もう終わっちゃった、、、」。完走した時に僕が一番最初に思ったことは、これでした。達成感よりも、終わってしまった悲しさを先に感じました。思っていたよりも順調に旅することが出来て、予定の2日前倒しでゴールしてしまったのですが、最後の10kmは終わるのが嫌すぎて、亀の子並みのスピードで漕いでいました(笑)。それでも、ハノイに到着した時に、ベトナム語の先生と2年前から大変お世話になっているMさんが盛大に出迎えて下さったのが嬉しすぎて、そんな悲しさは吹き飛びました(←単純)。他にもハノイでたくさんの方に会えて、縦断完走のお祝いの言葉を頂きました。自転車漕ぐだけでこんなに喜んでもらえるなら、もっとやっちゃおーかなーとか思ったり(笑)。  

学んだこと・感じたこと

自分を動物に例えるなら?マグロです。僕は今回の旅で、その問いの答えはマグロだと確信しました。このように思ったのは、縦断中の休憩日です。休憩している日は、基本的にはのんびりしていたのですが、のんびりしていると逆にストレスが溜まってきました。改めて自己分析をしていると、何かに向かって挑戦していないと生きていけない、じっとしていられない人間なのだと判明しました。なので、マグロです(笑)動かないと窒息死します(笑)  また、ベトナム愛を再確認できた旅でもありました!もーほんとにベトナム大好きです。だからこそ!日本、ベトナム、アジア、世界の町工場・モノづくりを盛り上げていきたいと強く感じました!世界の仕事の多くを占める製造業に携わる人たちが元気じゃなかったら、世界は元気にはならない。そのために僕が出来ることを模索しながら、可能性に飛びついて、踏ん張って行きます!!   最後に、、、、「自転車漕ぎすぎ。ダメ。絶対!」スーツが入らなくなりました(笑)   拙い僕の記事に目を通して頂き、ありがとうございました!!                                  


“東京五輪”“ サッカーへの情熱” 日越スポーツ交流についてアツく語る

February 10th, 2020

梅田 邦夫 駐ベトナム日本国大使      -01,2019       

 
ベトナムでは、急速な経済成長と共にスポーツ界も大きな飛躍を遂げつつある。昨年初めのサッカーU-23 ベトナム代表フィーバーの過熱ぶりは多くの人々の記憶に刻まれ、国全体が一丸となった。リオ五輪では、ついに初のベトナム人金メダリストも誕生した。今回は、日越スポーツ交流に並々ならぬ情熱を注ぐ、梅田邦夫駐ベトナム日本国大使にベトナムフットボールダイジェスト運営者がインタビューを実施。
来年に迫った東京五輪に向け、ますます加速する日越スポーツ交流について話を伺った。

★日越外交関係樹立45 周年の スポーツ交流について

 
- 2018 年は日越外交関係樹立45 周年の節目の年とあり、両国間で様々な交流が行われました。その一環で行われたスポーツ交流も例年になく活発でしたが、この1 年を総括した印象をお聞かせください。
 
2018 年の日越スポーツ交流事業を振り返ってみると、結果的にではありますが、圧倒的にサッカーが多かったという印象です。私自身、この地でサッカー交流を行わなければならないと強く自覚したのは、1 月のAFC U-23 選手権でのベトナム準優勝という結果を見てからなんです。それまでは、ベトナムがこんなに強いということを意識していなかったので、やれることは非常に限られていると思っていました。ところが、U-23 の結果を受けて、これは色々な可能性があると認識を改めたんです。
そこで、J リーグや日本サッカー協会に働きかけて、こちらから仕掛けた部分もあります。
 ただ、実際にはそれよりずっと以前から日本は、ベトナムでのサッカー交流を行っていました。トヨタのジュニアサッカー然り、川崎フロンターレの指導者派遣然り。サッカー交流で特に目立つのが育成年代向けの活動です。これは、これからも是非続けていかなければならないことだと思っています
 サッカー以外のスポーツの内訳は、柔道、空手、剣道、駅伝、卓球など。分類すると、日本の伝統的な競技が続いています。
駅伝も日本発祥。卓球は、若い世代を中心に日本人選手が世界で活躍しています。こうした日本が得意とする競技の普及活動が活発化している印象です。2020年には、東京五輪も控えていますし、スポーツの国際交流にも熱が入っているのでしょう。色々な協会や団体、また地域の方々から幅広い協力を得ることができ、非常にありがたいことだと感謝しています。
 今年のスポーツ交流事業の中で、特殊なものとしては、ハノイとホーチミンで毎年交互に開催されている「モッタイナイマラソン」があります。これは、ベトナム婦人新聞社の企画による交通事故防止のチャリティランで、もともとベトナム側が主体となった現地発祥のイベントです。もう一つは、ミズノによる子ども向け運動遊びプログラム「ヘキサスロン」の導入。ベトナムの課題の一つとして、以前から言われているのが、運動能力を高めるための体育カリキュラムが欠落していることがあります。そこに、ミズノが名乗りを上げて「ヘキサスロン」の初等教育導入を働きかけ、実際に、そういう方向に進みつつあります。実現すれば、ベトナム体育教育の発展に大きく貢献しますので、我々も是非後押ししていきたいです。
  - 国際交流におけるスポーツの役割とは、どのようなものだとお考えですか?  
 先日、セルジオ(※サッカー解説者セルジオ越後)がハノイ市で講演会を行いました。その時に彼が自分自身の体験も踏まえて、語っていたことですが、国際交流におけるスポーツの最も重要な役割というのは、人と人、そして、国と国を繋ぐことです。セルジオや我々の場合は、サッカーを通じて、その国を知り、多くの人々を知りました。これはどのスポーツも同じです。
2 点目は、相互理解を深めること。国民的スポーツというのは、その国の文化や歴史を反映しているものです。どうしてベトナムでサッカーが人気なのか、彼らはどんな応援をするのか、それらを知ることで理解は間違いなく深まります。3 点目は、国や人間を成長させることです。どういうことかというと、スポーツをやっていると、必ずライバル関係というものが生まれます。
国際間でいえば、ブラジルとアルゼンチン、日本と韓国。強烈な競争意識を持ちながらも、互いを高めあう存在になっています。
 
- 2018 年の日越スポーツ交流で、特に印象深かった活動はありますか?
 
 福島県で開催されたU-17 日メコン・サッカー交流大会ですね。U-17 ベトナム代表のメンバーは、この日本滞在中、日メコン首脳会議に出席していた国家首脳たちから表彰されたんです。このことは彼らにとって、大きな励みになったと思います。そ
して、アジア大会出場のために、岡山県美作市でキャンプをしたサッカー女子代表チームの壮行会。女子代表は、前年のSEA Games で優勝したときも直前合宿を美作市で行っており、とても縁起がいいキャンプ地とのことでした。初戦はなでしこジャパンに大敗しましたが、ライバルのタイに勝って、決勝トーナメントに進出でき、国内でも称賛されました。そして、個人的にも関わることになった日越サッカー協会のパートナーシップ再締結。サッカー好きのフック首相が日メコン首脳会議で訪日するタイミングで、安倍首相も立会いの下、締結することができ、非常に良かったです。このパートナーシップをベースに今後、日越サッカー交流はさらに活発化していくことでしょう。
  ★ベトナムサッカーについて
 
— ベトナムで最も盛んなスポーツといえば、やはりサッカーです。特に2018 年はベトナムサッカーにとって躍進の1 年で、国際大会のたびに国中が大変な騒ぎになりましたが、現地にいて、この地のサッカー熱をどう感じていますか?
 正直言って驚きました。サッカーが強い、サッカーで勝つということが、この国にとてつもないエネルギーを与えていると思います。それを目の当たりにして、羨望を抱いてしまうほどに。それと同時に二つのことを感じました。一つは、ベトナムサッカーのさらなる発展のために、何かお役に立ちたいということ。もう一つは、日本とベトナムの協力の延長線上で、どのようにしたらサッカー分野での協力を促進させていくことができるのかということ。そうしたことをベトナムのサッカー熱を見て、
考えるようになりました。
  - 梅田大使は、日本サッカー協会国際委員も務めておられますが、どのような活動をされているのでしょうか?
 日本政府の代表者である大使としての顔、サッカー協会の国際委員としての顔、二つの顔を持ち合わせることで、色々なところに顔を出すことができるわけです。先ほどお話したパートナーシップにしても、両国首脳の前で締結できたのは、この二つの顔があったからこそ実現できたものだと思います。こうした色々な活動を通じて、ベトナムでサッカーをする子供たちを励ましてあげたい。ベトナムサッカーがこれから世界に飛躍していく手助けをしたいという気持ちを持って活動しています。
  - 数年前までは、男子と女子のベトナム代表監督を日本人が務めていました。トップレベルだけでなく、草の根レベルも含め、こうした人材の交流については、どのように見ていますか?
 現在、八木氏がハノイFC 女子チーム(※ベトナム女子リーグ2018 のレギュラーシーズン女王)の監督を務めてくれていますが、もっともっと増えて欲しいですね。男子のベトナム代表を率いている韓国人のパク監督を見ると、彼の存在がどれだけベトナムと韓国の関係強化に貢献しているのか、計り知れないものがあります。選手でも、監督でも、トップレベルでも、草の根レベルでもいいのですが、そうやって貢献してくれる人がいてくれるのは、間違いなく国全体の財産です。
  ★梅田大使とサッカーのかかわりについて
- スポーツ交流、とりわけ、サッカー交流に並々ならぬ情熱を持つ大使ですが、大学時代は、サッカー部でキャプテンを務めてい
たと聞いています。大使とサッカーの出会いをお聞かせください。  
 もともとは野球少年だったんですが、中学生のときに開催されたメキシコ五輪で、日本代表が銅メダルを獲得したのをテレビで観て、サッカー面白いじゃないかと思って、ボールを蹴りだしたのが始まりです。本格的にサッカーに取り組み始めたのは大学に入ってから。外務省に入省後、スペインで2年間語学研修をしたときは寮のチームに入れてもらい、よくボールを蹴っていました。あまりのレベルの違いに驚愕したのを覚えています。当時は、よくスペインリーグも観に行きました。日本に戻って以降、しばらくサッカーから離れていたのですが、あれはJ リーグ発足した後だったか、息子が入団した地域のクラブの監督から、経験者だからという理由でコーチの手伝いを頼まれたんです。そこからサッカーの人脈が広がって、現在まで繋がっているという感じですね。セルジオとも、その頃からの知り合いです。
  - ベトナムに赴任される以前は、サッカー王国ブラジルの日本国大使館で働いておられましたが、ちょうどその時期、ブラジルではリオ五輪とサッカーワールドカップが開催されました
 大使としてブラジルに行くということは当初、全く自分の頭の中になかったんです。ところが、ワールドカップの1、2 年前のある日、セルジオと友人の平野氏(電通)と食事していて、次はブラジルでワールドカップがあるから、梅田さんが大使になって、日本代表を裏方でサポートすればいいじゃないかという話になり、それで、その気になりました。ワールドカップ開幕の数ヶ月前に赴任して、実際に何をやったかというと、現地での安全対策と応援体制の整備。非常にありがたかったのは、日系人の方々
が全ての試合会場でサポートしてくださったこと。リオ五輪のときもサッカー代表チームが練習試合を含めて5 試合を行いましたが、各地でやはり日系人の方々の助けがありました。そして、ブラジルで良い思い出として残っているのは、日本サッカーの発展に貢献した「ブラジル選手に感謝する会」を主催したこと。ちょうどブラジルにいらした安倍首相を迎えての会でしたが、ジーコ、ドゥンガ、サンパイオ、アルシンド、ビスマルク、セルジオ等が参加して、安倍首相から彼らに感謝の言葉をもらい
ました。
  - 2020 年には、日本で56 年ぶりとなる夏季オリンピックが東京で開催されます。ベトナムは前回のリオ五輪で、初の金メダリ
スト(男子射撃)が誕生するなど、今後は五輪への注目度も高まりそうな気配です。東京五輪に向けて、日越のスポーツ交流も
引き続き行われていくことと思いますが、どんなことを期待しますか?  
 もちろん男子サッカーで出場できればいいのですが、それ以外の競技でも、一人でも多くのベトナム人選手に東京五輪に出場してもらいたいと思っています。現在、日本で暮らすベトナム人は30 万人にも上り、日本経済を支えてくれています。在日ベトナム人による犯罪が増えているなどの問題も発生してはいますが、基本的には、ベトナムの方々は日本に強い憧れを持っているのも事実です。東京五輪という機会に、良いイメージを国際社会に発信してもらいたい。自国の選手たちが出場して活躍するということが、ベトナムという国の一体感を生み、エネルギーになると思うんです。その舞台が東京五輪であれば、それはとても素晴らしいことです。

『愛人/ラマン』作者マルグリット・デュラスゆかりの地を訪ねて

November 15th, 2019
VINABOO 04, 1998 小説 仏:ラマン(L'Amant)日:愛人 越:フィン・トゥイ・レーの家 英:The Lover  

ベトナムがフランス領だった時代少女だったマルグリット ・ デュラスは、 1928年~1932年の間サデックの家とサイゴンの寄宿舎とを往復していたという後年、 自伝的小説として書いた小説 『愛人/ラマン』 は、 150万部のベストセラーにな1984年にゴンクール賞を受賞。 映画化もされているサイゴンは彼女の生きた当時から比べると跡形もないほど近代化されているが、サデックやカントーには、 映画のロケ地そのままの雰囲気や彼女が愛した華僑男性の住んでいた家が残っており、 見学できるようになっている。 ★サデック Sa Dec メコンデルタ地方Dong Thap 省にあるサデックは、クメール語で「水の神」 という意味。

●愛人/ ラマン』の華僑のモデルと なった男性フイン・トゥイ・レー (Huỳnh Thủy Lê)の家  2007年より公開されている。 本人や家族、デュラスの資料も展示してある 入場料: 2 万ドン。 住 所: 255 A Nguyen Hue また、M・デュラスの母が勤めていた学校も残っている(フンヴン通りとホー スアンフオン通りの角)チュンブン小学校     その他の見どころ ●フラワービレッ
  • ナイトマーケット 
  • Nam Phuong Linh Tuテーマパーク
フラワービレッジから車で30 分。ビナサン出資の美しいお寺と展示資料館。一帯がテーマパークとなっていて、写真大好きのベトナム人に人気。     入場料:3 万ドン。 ●Xeo Quyt クルーズなど    

★カントー Can Tho

メコンデルタ地方の最大都市
  • 映画のロケに使われた古民家(写)
 Binh Thuy House 映画『ラマン』で華僑男性が父親に会いに行くシーンで使われた家。 築後130 年も経っているのに、未だ美しく、アンティークの家具やインテリアも一見の価値あり。     家主一家はこの家に在住。マダムは英語が堪能で、こちらのいろいろな質問にも親切に答えてくれた。 入場料: 1 万5000 ドン。 住 所: Bui Huu Nghia, Binh Thuy ●水上マーケット
  • 各種クルーズ
     

ホーチミン Ho Chi Minh

  • Le Hong Phong High School(写)
 実際にデュラスが通っていた学校  1927 年インドシナ領時代に建てられた。  住 所:235 Nguyen Van Cu,Dist 5
  • ロケに使われた学校(写)
(Ton Duc Thang と Nguyen Huu Canh の角)      
  • Ton Duc Thang のボート乗り場
 (現在は水上バス停)
  • Cho Lon など。
   
  • 作家紹介

マルグリット・デュラス 1914年フランス領インドシナ(ベトナム)のサイゴンに生まれる。 1932年 フランスに帰国。パリ大学で法律・数学を専攻し、政治学の学士を取得。結婚・出産し、離婚、再婚を繰り返す。 1943年 処女作『あつかましき人々』を発表する。 1950年 発表した『太平洋の防波堤』が、わずかの差でゴンクール賞を逃す。現地で教師をしていたが早くに夫に先立たれた母が現地の役人にだまされ、海水に浸ってしまう土地を買わされ一家が貧困を余儀なくされるという、一家の苦難と母の悲哀を描いた自伝的小説だった。 1984年 自伝的小説『愛人/ラマン』が、ゴンクール賞を受賞。 1991年 ラマンの姉妹編とも言うべき『北の愛人』発表。 1992年 『愛人/ラマン』がフランス・イギリス合作で映画化。 他、代表作に『ヒロシマモナムール』など。 (Wikiより抜粋)      

オススメルート ホーチミン ⇒ サデック ⇒ カントー ⇒ ホーチミン

移動には長距離バスがお勧め! 祝日はお休みで、取り扱い業務によって受付時間が異なります。訪問前にウェブサイトで確認しておきましょう。 ■チケットの販売所・バス停 2018、3月
  • HCMC -Sa Dec / Phuong Trang
231 Lê Hồng Phong, Dist.5, HCMC Mien Tay ターミナル:395 Kinh Duong Vuong, An Lac Ward, Binh Tan Dist., HCMC 電話:19006067 /通常料金: 95.000 ドン
  • Sa Dec – Can Tho / An Nhien
Sadec ターミナル(2日前に要予約)電話番号: 0939.156.756 /通常料金: 60.000 ドン
  • Can Tho – HCMC / Phuong Trang
Can Tho ターミナル : Hung Thanh Ward, Cai Rang Dist., Can Tho 電話番号: 029-23769768 /通常料金: 110.000 ドン      

映画/ 小説のあらすじと背 監督:ジャン・ジャック・アノー。主役 の少女は、モデル出身の女優でイギリ ス人のジェーン・マーチ。男性役は、香 港映画スターのレオン・カーフェイ。 M. デュラスの自叙伝でベストセラー となったフランスとイギリスの共同制 作。 1929 年、フランスの植民地時代の インドシナに暮らす貧しいフランス人 の少女が、南部サデックの家からサイ ゴンの寄宿舎に行く渡し舟の中で、地 元で有名な華僑の不動産王の跡取り息 子に声をかけられ、彼のリムジンでビ ンロンからサイゴン間を送ってもらう ことに(今では3時間程度だが、当時 は5時間くらいかかったのではと思わ れる)。

      アヘン中毒で盗癖があり暴力を振るう 上の兄と、不動産詐欺にあい経済的に 追い込まれ精神的にも病的な母との家 族関係に悩まされる少女が、裕福で紳 士的な華僑との運命的な出会いからは じまり、次第に喧噪のチョロンにある 逢引用の家で逢瀬を重ね、彼の愛人に なっていく(当時の華僑のお金持ちは 逢引用の部屋を持っていた)。 当時、白人のプライドからアジア人と の恋愛は許されなかったし、華僑の男 性も親が決めた金持ちの華僑令嬢との 縁談が決まっていて、未来の無い関係 であったが、彼は彼女を心から愛しは じめていた。男性は、家長である父親に 彼女と一緒になりたいと懇願するが許 されず、また、フランスへの帰国を決め てしまった彼女に深く失望する。 「お金 の為だけに付き合っている」と、家族に も自分自身にも言い続け、決して人前 で泣くことのなかった彼女だが、フラ ンス行きの船でショパンのピアノ曲を 聴いた時、男性への想いを抑える事が できず号泣してしまう。「愛していたの かも知れない」、と。 その後フランスで有名作家となった彼 女が、この自叙伝を書いていた時に、一 本の電話がかかってくる。電話口の男 性の話す声は、聞き覚えのある懐かし い中国訛りでお互いの近況を話したあ と男性は「今もあなたをずっと、そして死ぬ まで愛している」と告げた。 彼女がベトナムを離れたのが1932 年で、映画が撮影された1990 年ま で約60 年も経っているのにも関わ らず、この映画は当時を良く再現し ている。戦前と戦後ベトナムの風景 が、あまり変わらなかった事が映画 撮影には幸運だったと思われる。ま た撮影が可能になったのも1988 年 から本格化されたドイモイ政策のお かげだとも言えるだろう。当時のベ トナムを知る上でも大変貴重な資料 であるし、在住者には90 年の撮影 時と今を比較できる面白さもあるだ ろう。 映画には生生しい官能的な濡れ場も 多く、デュラス自身は映画の出来に 対し不満だったという。晩年、華僑の 男性の死を知って執筆を始めたとい う『北の愛人』では、彼に対しての愛 をはっきり表現している  

結合双生児だったドクさんに独占インタビュー! ベトナム障害者スポーツの現状などについて語る

November 15th, 2019
VINABOO 04,1998   ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤の影響により、結合双生児として誕生した「ベトちゃんドクちゃん」。分離手術から19年後の2007年に、兄のベトさんは亡くなったが、弟のドクさんはホーチミン市で今も元気に暮らしている。日本から派遣された医師団が分離手術を支援したことや、その後も慈善活動などで頻繁に日本を訪れていることから、「今も日本とは強い絆で結ばれている」と語るドクさんだが、実は大のサッカー好きとして有名。今年1月のAFC U-23選手権でベトナムが快進撃を続ける中で、ベトナム紙がドクさんの単独インタビューを掲載したほど。今回はベトナムフットボールダイジェスト運営者が、ドクさんの現在の暮らしや障害者スポーツの現状などについて話を聞いた。 ●プロフィール グエン・ドク ( Nguyn Đc) 1981年2月25日、ベトナム中部コントゥム省で、下半身がつながった結合双生児として生まれた。1 歳のころ、ハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院(ベトドク病院)に移り、そこから兄はベト、弟はドクと名付けられる。1986 年にベトが急性脳症を発症し、東京で手術を受けるも後遺症が残り、1988 年にベトの容体が悪化したことを受け、兄弟の分離手術が決定。17 時間に及ぶ手術は成功し、ドクはその後、職業学校でコンピュータープログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。ドクは2006 年に慈善活動を通して知り合った女性と結婚。寝たきりの状態が続いていたベトは腎不全と肺炎の併発により2007年に死去した。ドクの妻は翌2009年に双子を出産。双子は日本にちなみ、男児がPhu S ĩ(富士)、女児がAnhĐao(桜)と名付けられた。2017年には、広島国際大学の客員教授に就任している。   Q: 先日、37 歳のお誕生日を迎えたとのことで、おめでとうございます。実は私もドクさんと同い年なんです。私は2005 年にホーチミンに来たのですが、当時ベトナムのことはあまり知りませんでした。ベトナムについて思い浮かぶことといえば、ベトナム戦争、枯葉剤の被害、そして、ベトちゃんドクちゃん。子供の頃にニュースで見ていたドクさんに、こうして会うのは不思議な気分です。   ドク「私自身、日本の方々とは、とても縁があると感じています。こちらこそお会いできて、嬉しいです。」   Q: ベトナムと日本の架け橋として活躍されているドクさんですが、昨年は天皇皇后両陛下が訪越された際に面会されました。どんなお話をされたのですか?   ドク「平和な世界、戦争が起こらない世界が実現しますように、というメッセージをお伝えしました。そして、両陛下のご健康を心よりお祈りしますと話しました。」   Q: ツーズー病院で行われた分離手術は、日本から派遣された医師団が支援したと聞いています。当時は僅か7 歳でしたが、手術後初めて一人になった時のことを覚えていますか?   ドク「体が繋がっていたときは日常生活が大変でしたから、これからは自立した生活ができるということで、清々しい気持ちだったのを覚えています。」   Q: その後は、治療を受けるために、1 年以上も日本に住んだことがあるとか。今でもよく日本に行かれるのですか?   ドク「これまでに46 回、日本に行っています。日本全国の色々なところに行きました。昨年は体調が悪くて行けなかったのですが、今年は広島国際大学の客員教授として、また行くことになると思います。大学では、ベトナム戦争や平和への祈り、障害者の心などについて講義しています。」   Q: 日本に対する印象を聞かせてください。 ドク「美しい国、おもてなしの心を持つ国というイメージです。」   Q: 現在は、かつての入院先でもあったツーズー病院で働かれているそうですが、どんな仕事を担当していますか?他にも、いろいろな活動をされていると聞いていますが、具体的には、どのようなことをされているのでしょうか?   ドク「病院では事務を担当しています。その他には、ホーチミン市越日友好協会の執行委員会、慈善活動団体“美しい世界のために”(Vì MộtThế Giới Đẹp Tươi)の代表者も務めていて、障害者や貧困層の支援活動をしています。」   Q: ところで、以前、日本のニュースを見て知ったのですが、ドクさんは大変なスポーツ愛好家だそうですね。特にサッカーがお好きで、ご自身もプレーなさるとか。いつごろサッカーを始めたのですか?   ドク「1990 年だったでしょうか。治療のため、神戸に住んでいたころ、サッカーを習ったんです。当時は健常者のチームに混じって、松葉杖を使いながらプレーしていました。大阪大学と京都大学の対抗試合に招かれて出場させてもらったのは、日本での一番の思い出です。他にも、水泳やバトミントンを習っていました。」   Q: それは、すごいお話ですね。応援しているクラブや好きな選手がいたら教えてください。   ドク「マンチェスター・ユナイテッドのファンです。選手ならベッカムと元イタリア代表のトッティ。日本の選手で言うと、中田(英寿)が好きでした。」   Q: 双子のお子さんは現在、日系サッカースクールに通っているとのことですが、たくさんあるスクールの中で、どうして日本のスクールを選んだのですか?   ドク「日本の教育や文化が好きですから。子供たちには、スポーツを通して、健康で強い心を持った自立した人間になってほしいと思っています。」 Q: ベトナムサッカーと言えば、今年1 月のAFC U-23 選手権でベトナムが準優勝しましたが、この大会はご覧になりましたか?   ドク「もちろん!大会の初戦から決勝まで全試合観ましたよ。特に、準々決勝のイラク戦は感動しました。あの試合は、レ・フイン・ドゥック氏(元ベトナム代表で往年の名選手)から頂いた背番号10 のユニフォームを着て応援した んですが、PK 戦でベトナムが勝利したときは、涙が止まりませんでした。昔、ホーチミン市で行われた両国の試合で、ベトナムはイラクに全く歯が立たなかったのに、ベトナムサッカーもここまで来たのかと感無量でした。」   Q: あの時はベトナム全土が大変な騒ぎでしたね。   ドク「本当に(笑)。ベトナムの選手たちを誇りに思います。」   Q: ベトナムの障害者スポーツの現状については、どのように考えていますか? ドク「ベトナムでは、障害者に対する偏見も色濃く残っていますし、かなり遅れているというのが本当のところです。障害者は、何もできない人間とみなされており、こうした偏見が障害者の社会進出を阻んでいます。多くの場合は、何か見返りがなければ、障害者を支援しようという動きにはなりません。そういう現状ですから、私はベトナムの障害者スポーツに参加していません。」   Q: 障害者サッカーについて言えば、日本では7 つ(切断障害、脳性まひ、精神障害、知的障害、電動いす、視覚障害、聴覚障害)に分類されて行われています。ベトナムでは、障害者サッカーは行われているのでしょうか?   ドク「残念ながら普及していません。ベトナムにある障害者スポーツは、水泳やボディービルディング、重量挙げぐらいです。この20 年あまり、心の中で日本の障害者サッカーチームに入ることを夢見てきましたが、まだ実現していません。」 Q: かつて競技者だった立場から見て、ベトナムにおける障害者スポーツの普及にはどんなことが必要だと思いますか?   ドク「これは障害者スポーツの普及だけでなく、障害者の社会進出にも通じることですが、誠実さ、プロフェッショナリティ、そして心の繋がりがあれば、状況は改善していくと信じています。」   ベトナムフットボールダイジェスト サッカー好きのホーチミン在住の翻訳家兼ライターが2013 年に開設したベトナムと東南アジアのサッカー専門サイト。V リーグやベトナ ム代表だけでなく、アジア戦略を推進するJ リーグ各クラブの取材も精力的に行っており、サッカーを通じて日越の架け橋となるべく活動を 続けている。サッカーキング、フットボールチャンネル、エルゴラッソなど日本の大手サッカーメディアにも記事を寄稿。